2017.12.26

田中大貴が語るバスケ部時代「背番号『24』は、母校長崎西の『西=24』」
文=松原貴実 写真=野口岳彦 提供=バスケット・カウント
文=松原貴実 写真=野口岳彦
提供=バスケット・カウント
バスケ部しかない小さな小学校で、必然の出会い
生まれたのは長崎県雲仙市、一言でいえばのどかな田舎町です。通っていた小学校も児童数が少ない小さな学校だったので、毎日同じ友達と野球をやったり、テニスしたり、缶蹴りしたり、釣りに行ったり。授業が終わるとみんなでワーッと近くの広場までダッシュしてましたね。子供のころから運動は得意でした。野球もテニスも遊び感覚でやっていたので「上手かった?」と聞かれても、よく分かりません。それでも、もしバスケじゃなくて野球をやっていたら、今ごろプロ野球選手だったなと自分では思っています(笑)。 じゃあなぜ野球ではなくバスケだったのかというと、ウチの小学校にはバスケ部しかなかったからです。2年生の時に仲の良い友達が入るというので、自分も一緒に入りました。バスケに興味があったというより友達と遊びたくてついていったという感じです。練習は週2~3回、指導してくれる先生がバスケの初心者だったこともあり、パスとかドリブルとか基本になる練習はちゃんとやってましたけど、全国大会を目指すとかそういう雰囲気ではなく、最初は遊びの延長みたいな感じで楽しんでいたような気がします。 でも、そのうちどんどんバスケが好きになって、5年生になる頃にはすっかりのめりこんでいました。どのぐらいのめりこんでいたかというと、試合に負けるたびに悔しくて泣いていたぐらいです(笑)。身長は6年で160cmで、飛び抜けて大きかったわけじゃないですけどシュートは得意で、中学でも絶対バスケを続けようと、その頃にはもう決めてました。
全国レベルを知り「いつかあいつらを超えたい」
夏休みになると朝学校に行ってまず陸上の練習をして、終わってからみんなで集まって勉強して、昼過ぎからはバスケット部の練習……と、ほぼ一日学校にいました。ほぼ一日学校にいて、陸上とバスケの練習でほぼ一日走ってましたね。ほんと、体力あったなあと思いますよ。疲れてもすぐ回復しましたからね、今と違って(笑)。 シュート練習はものすごくしていました。昼休みは体育館でずっとシュート打ってたし、授業が終わるとソッコー体育館に行ってたし、バスケットに関しては真面目だったなあと今でも思いますよ。周りからは「バスケ部は厳しくて大変だね」とよく言われましたが、大変じゃなかったです。いえ、大変ではあったけど、バスケが好きだったから全然苦じゃなかったですね。 3年生でキャプテンになり、春の九州大会で3位になったんですが、全中(全国中学生大会)出場権を懸けた夏の大会で福岡の木屋瀬中学に敗れました。結局、その木屋瀬中が全国大会で優勝したんですが、当時のチームには玉井勇樹(福岡第一高校→早稲田大学)、占部賢人(北陸高校→鹿屋体育大学)、園幸樹(福岡第一高校→白鷗大学)といった上手い選手が揃っていて衝撃を受けました。なんていうか、もう「なんだ、こいつら」って感じです。力の差が歴然としていて敵わないなあと思いましたね。けど、同時に負けたくないという気持ちも湧いてきて、自分はまだまだだけど、いつかあいつらを超えたい、超える選手になりたいって、自分が上を目指すきっかけになったような気がします。
「先生、テストに出るとこだけ教えてください」
九州には(福岡大学附属)大濠とか、福岡第一とか、延岡学園とか、強豪校が沢山あります。けど、自分は長崎県を出てそういった強豪高校に進むだけの実力はないと思っていました。長崎西高校に進んだ理由の一つは、もともとウチの中学の先生と長崎西の先生が知り合いだったことです。そのつながりで先輩も進学していたし、県内の高校に進むと決めた時点で自分の中には長崎西しかなくて、途中から練習にも参加させてもらってました。 長崎西は県下でも有数の進学校ですが、年に2人だけ『特別推薦』で入ることができるんです。いわゆるスポーツ推薦ですが、自分はその一人でした。入学後はバスケット部の先生の家の近くにある寮に引っ越して、まあ寮といっても普通の一軒家を借り上げた感じなんですが、そこに同じ推薦枠で入ったバスケ部の先輩たちと暮らすわけです。当時は自分を入れて5人でしたね。 朝起きると先生の家まで朝ごはんを食べに行って、先生の車で学校まで行き、授業を受け、部活をやり、歩いて帰るという毎日でした。夕飯も先生の奥さんが作ってくれるのでそれを食べて、あとは先輩たちとワイワイやって、結構自由な雰囲気だったので楽しかったですよ。ただ勉強はむちゃくちゃ大変でした。もうこれは今までにないぐらい苦労しましたね。周りは東大、京大、九大を目指して入学してくる生徒ばかりだから、最初から全然レベルが違うわけですよ。ウチの学校には1時限目の授業の前に0限目というのがあって、勉強ができる子もできない子も関係なく全員で補修を受けるんです。0時限ってすごくないですか(笑)。
「メニューのほとんどがディフェンス」の日々
どんな練習をしていたかというと、メニューのほとんどがディフェンス。オフェンス2に対してディフェンス8ぐらいの割合でしたね。基礎的なことから始まり、毎日、毎日ディフェンスの練習。今の自分を見ると、そこで培われたものは大きかったと思います。そこで培われたもので今もやってます(笑)。 ウインターカップは3年連続出場しましたが、インターハイに出られたのは2年の時だけです。そのインターハイ出場を決めた県予選は今でも忘れられませんね。長崎のインターハイ予選はベスト4に残ったチームが総当たりで優勝を競うことになっていて、最終日を前にした時点でうちの順位は2位でした。インターハイに出るためには最後の試合に10点以上、正確な点数は忘れちゃいましたが、十何点つけて勝たなきゃならないという厳しい状況だったんです。 でも、試合終了のブザーが鳴った時、ウチのリードはぴったりその十何点。まるでドラマみたいな勝利でした。学校からも大勢の人が応援に来てくれて会場は最高に盛り上がって、本当にうれしかったですね。その時のチームには力がある先輩たちがいて、2年生の自分はそこに混じって出させてもらっていました。 初めて経験したインターハイは緊張しましたが、自分が通用する手応えも感じて、木屋瀬中学に全く歯が立たず衝撃を受けた中学時代とは違って、自分もやれるんじゃないかという自信が生まれました。実際その大会では比江島慎(シーホース三河)がいる京都の洛南と対戦し、その年のウインターカップでは宮城の明成とも競り合い、いずれも勝てはしませんでしたが、公立高校でもやればできるんだと、自分のモチベーションが上がりました。
「小さな努力を積み重ねてください」
こうしてこれまでの部活を振り返って思うのは、「ずいぶんと濃い時間を過ごしてきたなあ」ということ。長崎の田舎町で生まれて、小さな小学校でバスケを始めて、中学も高校も強豪とはほど遠いチームでバスケをやってきました。でも、高校に入った時、自分の可能性を信じてくれた先生に「おまえはこれから日本代表を目指せ」と言われたんです。その時は随分遠い目標のように感じましたが、それからはブレることなく目標に向かって努力をしてきたつもりです。 強豪校で揉まれたわけではなく、周りに自分と同じ夢を持つ仲間もいなかったけど、誰もいなくなった体育館でシュート練習を続け、休みの日も自分なりにメニューを考えて一人で練習していました。きっと今もどこかにあの頃の自分と同じような中学生や高校生がいると思います。 そんなみんなに伝えたいのは、「小さな努力を積み重ねてください」ということです。チームのレベルや環境を言い訳にするのではなく、まず自分が努力すること。自分が将来なりたい選手をイメージして、小さくてもいいから一歩ずつそこに近づけるよう頑張ること。そうすることで今日入らなかったシュートも必ずいつか入る日が来る。自分はそう思っています。
完全版インタビュー記事はこちら ⇒ バスケット・カウント
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